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心を心で育てる

心の理論の最終段階

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4回目の年女。
さすがに人生とっくに折り返しているはず。
とはいえ、まだまだ未熟で、毎日が勉強だなと思う。
人の心を扱うことを専門としているのに、なかなか心というものがわからない。
つかんだと思うと、またするりと逃げられてしまう。
他人の心も、自分の心も。
つかもうと思うこと自体が間違いなのかも。
わかるようでわからない。
だから飽きないのかなあ。

小さい頃、自分の周りの人はみんなロボットで、自分がみているときだけうごいているんじゃないかって真剣に考えたことがある。
自分以外の人達に心が存在することを理解できなかったのかもしれない。
一生懸命想像して、世界中にたくさんの人たちの心が存在するんだって理解しようとした。

自分以外の他者の心や考えを推測したり、理解したりする機能は「心の理論」と呼ばれるが、私はその発達が遅かったのかもしれない。

今でも、自分とは異なる考えを他者がもつのだということを常に意識するように心がけている。
そうしないと、自分の期待したように相手がふるまってくれないことに、がっかりしたり、腹が立ったりと、いちいち心が揺れ動くのだ。
人は人、自分は自分、みんな感じ方が似ているようで少し違うんだってことがなかなかわからなかった。
とくに、自分にとって大切な人ほど、その微妙な差が許せないのだ。

自分に関係のない人がどんな感じ方をしていても平気なのに、自分にとって大切な人の感じ方は支配したくなる。
こういうふうに感じてほしい、とか、こんなふうに感じないのはおかしいとか、身近な人にほど、こだわってしまうのだ。
距離のある人のほうがよく理解できるっていうのも不思議なものだなあ。

自己とは、他者との関係の中で浮き上がってくるのだとすると、最も身近な人との間の中で浮かび上がってくる自己は、自己の中心核なのかもしれない。

どうしても他者とは相容れない自分だけの感覚や思いを発見することが、「心の理論」の最終段階だとすると、やっぱりまだまだ私は学びが足らない。



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